岡崎飛行クラブの生い立ち

クラブ発足当時の先輩諸賢が、つぎつぎと鬼籍に入られるこの頃、岡崎飛行クラブの生い立ちを少しお話しして、新規会員の興味を引き立てておきたい。

今から35年程前(昭和44年)、当時の岡崎市長、太田光二氏から「経験者を集めてグライダーのクラブをつくり、青少年に夢を」との話があって、岡崎市内在住者を主にして集まり、規約を審議し発足。グライダークラブか?飛行クラブにするか?結局航空スポーツをという見地から「岡崎飛行クラブ」と称することに決まった。

クラブ初代会長稲垣弘一氏や犬塚進氏(3代目会長)が奔走し、中日新聞本社航空部に相談、中部日本航空連盟所属の中級機(複座)とウインチ車を岡崎市へ譲渡されることとなり、連盟事務局から寺本道生・長田美智彦両氏が交代で指導教官として出張されることとなった。
また、長野県諏訪市が霧が峰で行っているグライダーのうち、初級機1機を岡崎市へ贈与される話が決まり、整備責任者の粟田国男氏とともに雪道を、トラックを走らせ受け取りに行って来た。この機体に岡崎市長は「はと」と命名した。

そして県下の中学生以上の希望者を募集し、毎日曜日に岡崎市大門町地先の矢作川河川敷で滑空訓練を実施する運びになった。ときに中日新聞社ヘリに飛来してもらい、航空教室を開き、また航空少年団のパラセールを催すなど啓蒙を行った。同時期に企画した市民体験飛行の行事は今日まで続いている。

なお、滑空場の確保には一苦労でしたが、一級河川の所管は建設省(現在の国土交通省)で、中部地方管理局豊橋工事事務所や岡崎出張所に日参。即ち、河川敷の占用は前例がなく許可をもらうことが難しかったが、市の後援が効果があり、一時占用として手続きを続けることとなった。
その後、クラブの操縦技術の向上に伴い、使用機体も複座の上級機を購入したため、広い滑空場が必要となり、矢作川下流の八帖滑空場を開拓した。その後河川敷占用許可を平成7年に取得し、現在に至っている。

以上、岡崎飛行クラブ創立のあわただしくも楽しい思い出でしたが、今後とも若い皆様がますます切磋琢磨し、一層の飛躍をされることを祈念し筆をおきます。

中部日本航空連盟本部会報、2004年春号より
著:津坂長二 氏
昭和45年岡崎飛行クラブ創設メンバー、
昭和61~平成10年中部日本航空連盟愛知支部第4代支部長

『昭和51年2月8日の岡崎滑空場』